2011年、長寿番組だったテレビ時代劇『水戸黄門』が終了し、民放のレギューラー枠から消えて瀕死の状態のある時代劇。この本は衰退する時代劇に対する檄文なのか鎮魂歌なのかわからないが、衰退するにはそれなりのワケがあることを明らかにするとともに、その理由を多面的に分析している。
- 作者:春日太一
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/09/16
- メディア: 新書
下は新文芸坐に貼ってあった本の宣伝である。時代劇がダメになった理由を7つ挙げている。テキストで書き出してみる。
- 「高齢者向けで古臭い」とう固定観念
- 「水戸黄門」という特異なシステム
- 「自然体」しか演じられないヘタな役者
- 味ある脇役・悪役の不在
- マンネリ演出を打破できない監督
- 何もかも説明してしまう饒舌な脚本
- 朝ドラ化する大河ドラマ
ざっくり言うと、映画産業の斜陽化そしてテレビ時代劇の台頭により、既存の映画会社が役者やスタッフを丸抱えしていた雇用形態が崩壊して、時代劇のノウハウが伝承されなくなったことが、時代劇が衰退に向かう事態の背景にあるようだ。このことが時代劇に様々な影響を及ぼしていることが詳しく述べられている。
さらに、勇気の要ることだったろうが、ダメな役者や監督を実名で批判していることも特筆できる。筆者の今後の活動を考えると、なかなかできないことだろう。以下にいくつか抜粋してみる。
まず、フジテレビで放送された『仕掛人 藤枝梅安』(2006年)で梅庵を演じた岸谷五朗を批判している。〈酷すぎた「岸谷梅安」〉という項から。
「自然体で演じたい」と現代的な日常性で演じることを選び、梅庵の二面性や非情さを作り込むことを拒否したのだ。その結果はどうだったか。能面のような無表情の男がウロウロしている姿が終始映し出され、どのような感情を抱き、何を考えているかわからない、間抜けな梅安がそこにいただけだった。(p.114)
また「教養なき監督たち」という項でも、監督たちを次のようにバッサリ切り捨てている。
三池崇史、金子修介、阪本順治、滝田洋二郎、平山秀幸、河毛俊作といった、現代劇でそれなりに個性を発揮してきた監督・ディレクターたちが、時代劇になるとその個性が消えてしまう(中略)のはこのあたりに起因している。基礎をおろそかにして《自分なりの時代劇観》を確立することなく、感覚だけを頼りに臨むから、時代劇という本来は幅広い可能性のある素材を持て余してしまうのだ。(p.129)
と、なかなか手厳しい。あとがきで筆者は反論があるなら言葉ではなく作品で示せと結んでいる。なるほど正論であろう。
また最近の大河ドラマも徹底的に批判している。私が好きだった『平清盛』(2012年)にダメ出してしていたのは意外だった。
『平清盛』も『八重の桜』も、大河再興への意気込みを強く感じさせる力の入った作品であった。が、今度はリキみすぎた。(中略)とにかく歴史状況を丁寧に追いすぎているのだ。そのため、人物が多過ぎて関係性が一見では分かりにくい上に、ドラマの焦点がボヤけてしまった。(p.201)
そう言われば『平清盛』は従来の時代劇というより、歴史ドラマとして楽しんでいたのかもしれない。この本では大河ドラマに割いた紙幅が少ないので、ぜひ歴代の大河ドラマを次々に斬る批評も読んでみたいものだ。
さて最後まで読んだが、なかなか希望は見えてこない。分析が進んでいくにつれ、問題が構造的だとわかるからだ。もはや時代劇を楽しむには、過去の遺産を発掘するしかないのかもしれない。
しかし、本書に繰り返されているように「時代劇は現在進行形のエンターテイメント」である以上、過去に撮られた時代劇をずっと楽しむというわけにもいくまい。寒い時代だと思わんか。
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