先日ユーロスペースで、映画『ハンナ・アーレント』(2012年、監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ)を観てきた。昨年秋に岩波ホールで公開された際には盛況だったことが報じられていたが、渋谷でも真面目な映画にもかかわらず大変な混雑だった。
この映画は、ユダヤ人を強制収容所に送った輸送責任者だったルドルフ・アイヒマンの戦犯裁判をイスラエルで傍聴したユダヤ人哲学者アーレント(バルバラ・スコヴァ)が、ニューヨーカー誌に寄稿した記事により大炎上が巻き起こり、激しい批判に晒される様子が描かれる。
アーレントは記事のなかで、「アイヒマンは軍官僚として命令に従って任務を遂行しただけで、彼と同じ立場であれば誰もが同じことをしたはずだ」とした。彼は「凡庸の悪」(the banality of evil)に過ぎなかったとする一方で、ナチスに協力したユダヤ人を断罪した。
当時、ホロコーストの傷跡が深く残るユダヤ人コミュニティでは受け入れることができるはずもなく、アーレントは大学から辞職を求められたり、友人を失ったり徹底的に糾弾される。
映画では、アーレントに対する現在の評価については言及されないが、未だユダヤ人社会は彼女の言説を受け入れることができないのか気になるところである。
「凡庸の悪」問題を思うとき、日本の戦後処理を考えずにはいられない。A級戦犯として東京裁判で不当に裁かれた人たちは、絶対悪ではなくいわゆる「凡庸の悪」でしかなかったはずだ。
それでも彼らを捨て石にして戦勝国と手打ちをすることで、天皇ばかりでなく他の国民は責任追及を回避できた。その共通理解が最近失われつつある。
この時期にアーレントの映画が公開されるのも偶然ではあるまい。日本映画で戦後の総括をするような切れ味の鋭い社会派作品はできないものか。この映画を観てそんなことをぼんやり考えてみた。