退屈な日々 / Der graue Alltag

将来の展望が見えない現代。それでも映画や本を楽しみ、ダラダラと過ごす日常を生暖かく記録する。

【読書感想】鳥飼玖美子『英語教育の危機』(ちくま新書、2018年)

これまで英語教育改革に警鐘を鳴らし続けてきた筆者による総括本だ。私も「がんばれ」と陰ながら応援していたが、どうも手遅れのようだ。

この本では、これまでの英語教育改革の歴史を振り返ったのち、センター試験廃止で「民間試験」導入、小学校英語、グローバル人材育成戦略といった英語教育改革がいかに「悪手」であるかを論じている。

まず深刻なのは2020年施行の新学習指導要領であろう。中学校・高校では「英語は英語で教えなければならない」という無茶なルールをつくり、小学校で「英語」は教科としてスタートするがまともな教員の手あてはない。ロクな結果にならないことは火を見るより明らかだ。

さらに同じく2020年からは現行の大学入試では「センター試験」は廃止されて、問題を含んだ「民間試験」を導入するという。ほとんどの学生の努力は大学入試に向けられるので、これは学習指導要領よりも重大な変化かもしれない。

この英語教育改悪はすでに既定路線であり実施が決まっている。したがって、この本を読んで「なるほどそうだよね」と思って議論を始めても手遅れである。今回の改革に異を唱える英語教育関係者がどれだけいるかわからないが、政治力というか社会への影響力のなさは致命的だったた。残念だがだれにも相手にされなかったのだろう。無力なのは罪というと厳しすぎるだろうか。

以下、この本を読んで思ったことを2点述べる。

第一は、この本の冒頭に紹介されている「平泉・渡部論争」だ。あらためて紐解いてみると興味深い。70年代に外交官出身の国会議員・平泉渉が、上智大学教授・渡部昇一と英語教育改革について論壇誌場で論戦した一件である。

このなかで平泉氏は高校生の5パーセントに英語教育を集中するべきだと唱えていた。まあ5パーセントというのは少ないと思うが、上位2割ぐらいの生徒に集中して英語教育を施すのは的を得ているようにも思う。いまの日本で生徒全員が英語をまともにやる必要はない。才能のある人を選択してリソースを集中するべきだ。

今回の英語改革を議論するなかで、このような論争が起きなかったことも残念に思う。

第二は、大学入試への民間試験の導入は運用次第では利点もあると思う。実際、大学院入試の英語力を示すのにTOEICTOEFLが使われている。

とくに理系の場合は民間試験のスコアによって出願資格を得るような仕組みがあってもいいだろう。任意の時期に民間試験を受験してある程度英語ができることを証明できれば、あとは理数科目をエネルギーを集中した方がいいという考え方もある。本当に必要な「英語力」は大学に入ってからやればよい。

最後に、社会に出て英語が必要になれば生き残りのためにやらざるを得なし、意外になんとかなるものだということを付言しておきない。

新卒者が英語ができないというのは、圧倒的な勉強時間不足が主な原因だと思う。必要な人は勉強すればいい。まともな大学受験を経てきた人には、そのポテンシャルはあると思う。私は、その点については楽観している。

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