退屈な日々 / Der graue Alltag

将来の展望が見えない現代。それでも映画や本を楽しみ、ダラダラと過ごす日常を生暖かく記録する。

【読書感想】『学校英語教育は何のため?』(ひつじ書房、2014年)

このブックレットは、前書『英語教育、迫り来る破綻』に続く第二弾。この本によれば、「政府や経済界は『グローバル人材』という1割ほどのエリート育成を学校英語教育の目的とし、小学校英語の低年齢化と教科化、中学校英語での英語による授業実施、TOEFL等の外部検定試験の導入などの無謀な政策を進めている。」とし、公教育で英語教育の目的とは何かという根本に立ち返って、その方向を提言している。

4人の筆者たちの主張は前書から一貫しており、目新しいものが見つからない。内田樹×鳥飼玖美子による対談「悲しき英語教育」が収録されているのが本書の目玉だろうか。内田氏は英語教育の専門家たちとは違った視座からこの英語教育を捉えていて興味深い。

以下、この対談での気付きを書き留めておく。

  • 英語教育で指導力がもっとも必要とされるのは小学校の教員である。(p.105)
  • 日本では機動性の高い個人が社会的な格付けが高い。そうした個人は日本列島以外でも暮らせる人たちであり、「日本語がなくなっても、日本文化が絶えても、日本列島が沈没しても別に困らない」という人が国内で最も高く格付けされる。それがグローバル社会だ。そうした人たちが日本の政治の方向を決めている。(p.112)
  • 英語は低賃金労働者を作るシステムである。人材には三層ぐらいある。最上位は海外の一流大学で学位を取ってくるような人。日本に戻ってきてさまざまな専門職のトップになる。第二層は、日本の大学を出たり、英語圏に海外留学した程度の英語力の若者。上司の命令を理解できる程度の英語力はあるが、イノベーションはできない。中間層のサラリーマン。最下層は「英語ができなから」と自己評価が低い。中等教育で終わっているので低賃金労働しか選択肢がない。グローバリストが最も欲しいのは第三層の人間。(p.115)
  • CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)という言語能力を測る共通の参照枠があるが、これを到達目標にしてはいけない。これをやると学校教育は壊れる。(p.120)
  • 日本は言語の政治性に対する感性が鈍い。戦勝国の言語がその地域の標準語・公用語になる事実を見落としている。また国際共通語度と国力は相関している。(p.123)
  • アジアで英語教育が最も成功しているのはシンガポールだが、祖父母と孫がコミュニケーションできないなどの家庭内で言語の断絶が起こるなど弊害がみられる。グローバル化シンガポール化なのか考えてみる必要がある。ベトナムでも同じことが起こっている。(p.125)
  • オーラルだけというのは、宗主国の戦略。オーラルコミュニケーションはさせるが、決して訳させないし、文法や読むことを教えない。なぜから宗主国の人間を上回ると困るから。(p.129)
  • 旧制高校は最も成功した教育システム。リベラルアーツ教育をやっていた。戦後、GHQ学制改革旧制高校システムを破壊してのは「エリート教育」をさせないというアメリカの政策的配慮。

上記の対談は面白いのだが、本書は全般的には英語教育関係者の自己弁護という気がしてならない。時代に則した英語教育の方向性を打ち出せなかったのは、やはり英語教育関係者の怠慢というべきであろう。「ゆとり教育」の例をひくまでもなく、教育の評価が出るのはかなり後だし、その修正にも時間がかかる。

その点から時代の流れが速い現代で、「英語」という重要なスキルについていまさらああだこうだいってる時間はないだろう。大学教育でも「スーパーグローバル大学」などという珍妙な事業が動き出している。もう歯止めはかかるまい。

この本を読む限りにおいて、英語教育の方針転換はひどい失敗となり、日本に重大な災禍を招く可能性が高いように思う。が、結果がはっきりする頃には筆者たちはもうこの世の中にいないかもしれない。後世の専門家たちが、現代の英語教育専門家たちが無能だったと評するだけだろう。もちろん「英語」で書かれた論文で。

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