退屈な日々 / Der graue Alltag

将来の展望が見えない現代。それでも映画や本を楽しみ、ダラダラと過ごす日常を生暖かく記録する。

【読書感想】『英語教育、迫り来る破綻』(ひつじ書房、2013年)

この本の題名を見たとき、「え、まだ英語教育は破綻していないの?」と思ったが、自民党や政府からの英語教育に対する提言に警鐘を鳴らすことを目的にするブックレットらしい。裏表紙には次のようなコピーが載っている。

大学の入試や卒業要件にTOEFL等の外部検定試験を導入する案が、自民党教育再生実行本部や政府の教育再生実行会議によって提案された。しかし、もしそれが現実となれば、学校英語教育が破綻するのは火を見るよりも明らか。危機感を持った4人が、反論と逆提案に立ち上がった……。 ☆小学校英語教科化の問題点、白熱した座談会、関連年表なども収録。

英語教育、迫り来る破綻

英語教育、迫り来る破綻

この本にある主張を鵜呑みにすることはできないが、英語教育に関心がある人たちにとっての有用な問題提起になっている。以下に気になったことを述べる。

日本の国としてのグランドデザインが欠けている

この本がカバーする範囲ではないかもしれないが、英語教育を論じる前に、まず日本はどのような国になるべきかを論じて国民のコンセンサスを形成するべきである。そうしたグランドデザインが欠けている。

こうした議論を踏まえて、今後の日本に、どの程度の英語運用能力を持った人材がどのくらい必要なのをまず考えるべきではないだろうか。それこそを英語教育を論じる際の出発点にするべきで、もっと定量的な議論を積み重ねるてほしい。

この本では政府提言を財界やグローバル企業からの圧力だと断じているが、日本経済がグローバル企業の業績に依存していることを無視しているばかりか、教育者として時代の要請に答えるつもりはないようだ。いつのまにか英語教育が、「新自由主義がああぁ」とか「グローバル化がああぁ」といったイデオロギーの問題に置き換わっていないだろうか。

英語コミュニケーション能力は測れないの?

政府提言ではTOEFLを英語能力を測るモノサシにしようとしている。この本ではそもそも英語コミュニケーション能力は測れるのかという根本的な点に疑問を呈している。測定不能だとすれば、外部テストのTOEFLが日本の現状に適さないからと他のモノサシを持ってきても無駄だということになる。

そもそも能力を測定できなければ、投資対効果を測定できなければ、教育内容へのフィードバックもかからない。これでは実に困る。厳密な意味で英語コミュニケーション能力を測るのは無理にしても、英語教育関係者には、モノサシを作る責任はないのだろうか。

数値化できない目標なんて無意味だということは、現代社会ではもはや常識であろう。成果主義や数値主義は教育の荒廃を招くという意見もあるが、そんな甘っちょろい戯言が通じる世界は英語教育ムラにしかないのではないか。

英語教育関係者の怠慢

英語は理不尽なぐらい特別扱いされていて、ある意味かわいそうである。学校の授業時間程度(中高で1000時間足らず)で英語が使いこなせるわけないのに、すぐに「学校の英語教育では英語ができるようにならない」と非難される。体育や音楽では決してそんなことを言われないのに……。しかし英語教育関係者は、英語はそんなに甘いものじゃないことを、社会に伝えるのを怠っている。

次は英語教師の質である。今回の提言では英語教師に求める英語力を英検準1級程度と謳っている。現状、英語教師がどの程度に英語能力を持っているかわからないが、いくらなんでもハードル低すぎないか。僕でも持っているのに……。とにかくどの教科でも学生に対して圧倒的な学力を持っていなければならないのに、英語教師についてはそうでもない人がたくさん教えているのだ。

最後に、英語教育関係者の意見を専門家集団として統一してほしい。英語教育の専門家も、当然政府提言の作成に関与しているにちがいない。ならば、その専門家を呼んで誌上で座談会をしてほしかった。気のあった同士がガヤガヤやっているだけは「英語教育ムラ」と言われても仕方あるまい。